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二百八十  護国寺仲磨堂縁起(下巻482頁)

 仲麿堂とは、私が音羽護国寺の弘法大師堂の前に建立した一宇の(注・一棟の)小堂である。
 ここでこの堂の縁起を述べようとするならば、まず私がその堂前の老松の下に移築した、阿倍仲麻呂(原文「安倍仲麿)」塚古碑の由来を物語らなくてはならない。
 私は大正の初年に奈良において、高さ四尺(注・一尺は約30センチ)、幅二尺四寸、厚さ一尺ほどの自然石に、安倍仲麿塚と彫りつけてある古碑を見つけた。古色蒼然として、一見して七、八百年以上はたったものと思われた。
 碑面の文字は温秀高雅で、藤原時代の名家の筆蹟であることにまったく疑いはなかったので、出どころを問うてみたところ、大和国磯城郡安倍村(注・現奈良県桜井市)の、安倍文殊堂(注・安倍文殊院か?)の前にあったのだという。安倍村は、安倍一族の発祥の地なので、仲麻呂が唐において物故したのち、招魂碑としてこれをこの地に建てたものにちがいない。
 そのような古碑が、いまや道具屋の手に渡ってその店頭にさらされることになったのは、いかにも怪訝にたえないが、既に市場に出ている以上、早晩、誰かの手に渡っていくだろうから、心なき人の手に渡らぬ前にとにかく自分が買い取り、いったん自邸の伽藍洞に引き取っておいた次第である。
 仲麻呂は弘法大師よりも先輩で、しかも年代にはそれほどの違いもなく、また同じように入唐しているという縁もある(注・仲麻呂が入唐したのは8世紀、弘法大師空海は9世紀である)ので、この碑を護国寺の大師堂前に移建するのは、決して不届きなこと(原文「不倫」)ではないと思うと同時に、そのままにしておいたのでは、後世になってからその由来がわからなるだろうと考え、はなはだおこがましいことではあったが、碑陰に、次のような引(注・ひき=案内文)と詩を彫りつけたのである。

    此碑旧在大和国安倍村 久没蒿莱 無人剥蘚者 大正十三年甲子仲秋 移植斯地
     (注・蒿=よもぎ、莱=あかざ、蘚=こけ)
 

      題詩于其陰     箒庵逸人

    恋闕葵心欲愬誰 向東拝賦望郷詞 千秋唯有天辺月 猶照招魂苔字碑
     (注・愬=うったえる)

 この題詩は、はなはだ拙劣なものではあるが、しかし私はこの機会に阿部仲麻呂のために、すこしばかり冤を雪ぐ(注・名誉を挽回する)つもりであったのである。
 なぜならば、仲麻呂は霊亀二(716)年、十六歳のとき選ばれて遣唐留学生となり唐に行って学問をした。姓名も変えて、朝衡と名のり、玄宗皇帝の治世下で秘書監という役儀を勤めたという。そのことから維新前後の攘夷論が盛んだったころ、彼は唐に仕えた売国奴であるとして、藤田東湖などでさえもが彼を罵り、俗儒曲学と呼んだのである。
 仲麻呂は、あの「三笠の山に出でし月かも」の歌からも容易に推察できるように、自分が留学生として遣わされた朝廷を忘れたり、故郷に残した父母を顧みなかったような人間ではない。彼が唐の朝廷に立って官職を帯びたのは、留学生として唐の儀礼典章を研究するためだったのであり、また唐朝のほうでも、日本の秀才に花を持たせて名誉職を授けたということなのだ。これは、今日各国の朝廷から外臣に勲章を贈与するのとほとんど大差ないものだっただろう。

 彼は日本に帰ろうとして明州に至り、あの「天の原ふりさけ見れば」の望郷歌を詠まれたにもかかわらず、海上で台風にあい安南(注・現ベトナム)に漂泊し、結局恨みを抱きながら異郷で没することになった。そのことには大いに同情すべき点があるので、私は碑陰にさきほどの拙詩を題して雪辱の気持ちを表明したのであった。
 私はこのように仲麻呂塚石を護国寺境内の大師堂前に安置したので、それまで参詣人の休息所になっていた建物に接続する形で、六畳広間と三畳台目茶席と瓦敷辻堂形一室を増築し、それを仲麿堂と名づけた。そして、円窓龕(注・がん=厨子)内に設置するため、彫刻の大家である内藤伸氏に仲麻呂の木像彫刻を依頼した。すると内藤氏は熱心に古図を研究し、仲麻呂の服装などを調べ上げ、高さ一尺(注・約30センチ)ほどの木像を制作してくださったので、それを当堂の本尊にし、大正十四(1925)年五月九日に仲麿堂開扉茶会を催し、献茶式を行った。
 このとき小間を箒庵と名づけ、これに千宗旦筆の弘法大師画讃を掛けたが、それは、宗旦の、大師が曲(注・きょくろく=僧侶が法会のときに使う椅子)に座った図を、まるで子供のらくがきのように粗筆でしたためた上に、

     空海中主 日本弘法 在高野山 多少参人

の四言偈(注・げ=詩句)を書きつけてあるもので、この一軸の前には、時代朱塗四方盆に御本蓮形染付獅子蓋香炉を置いて、名香初音を薫じ、表に三笠山月の図、裏に仲麿堂の三字入りの楽焼菓子皿に青竹串三色団子を載せ、独楽盆には唐もろこし煎餅を盛って薄茶をすすめた。
 またこのときから三笠亭と命名した広間では、今回仲麿堂の堂守となった裏千家の藤谷宗仁が、この場にふさわしい道具組で来客の接待に当たった。
 そして、遠路奈良(原文「奈良三界」)から背負い込んできた仲麻呂石を、図らずも最適の地に安置することができたので、これならば地下の仲麻呂からもあまり苦情は言われないだろうと、はじめて安堵の思いをなしたのである。これが、すなわち護国寺仲麿堂の縁起である。



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